2人の武田信武について!
2人の武田信武についてのお話し!
9代 武田信宗( 〜1330) 1329銀山城築城(広島県安芸)
*土佐系図(1273〜1324)
永仁2年(1294)甲斐の国を賜る
10代 武田信武(1292〜1359)
*土佐系図(1298〜1373)永仁6年生まれ・応安6年7月9日没
母は:武藤左衛門尉藤原景頼の女
延文3年(1358)61歳で出家、「隋蓮」という。
嫡男信成は甲斐武田氏 次男氏信は安芸武田氏に分流する
武田家系図 A.B.C

・甲斐武田
11代信成 →12代信春 →13代信満 →14代信重(安芸信武の養子合流)→15代信守(信森) →16代信昌→17信縄 →18代信虎 →19代信玄(晴信)→20代勝頼1582年滅亡
・土佐武田(A系図)
20代勝頼 →21代信勝 →22代信房(以後山崎)→23代晴郷 →24代頼詣→25代頼晴 →26代勝明 →27代勝邑 →28代信善 →29代信英→30代信孟(寛政4年信孟誕生で系図終了分流)
・土佐武田嫡流(B系図分流)
30代信藪 →31代信盛 →32代正策 →33代健臣 →34代・・(現在)
・安芸武田
11代氏信 →12代信在(盛行)→13代信守(信武)→14代信繁(信重が養子合流) →分流15代元綱 →16代元繁 →17代武田光和 →18代武田信実1541年滅亡
*土佐系図では(13代目 信武)信武と成っている。
上段の横線が甲斐武田・2段目の横線が安芸武田

この信武は武田彦六郎・伊豆守
母は武藤筑後前司頼武の女 謚号 養法院殿瑞泉貞壽大禅定尼
康歴元巳未(1379)誕生 永享11年(1439)7月晦日61病死
法名 清浄心院殿雪渓照公大禅定門 <この人物です>
・若狭武田
15代信栄(初代) →16代信賢 →17代国信 →18代元信 →19代元光→20代信豊 →21代義統 →22代元明1582年滅亡
・伊予武田
信友(信繁の弟)→14代信保(初代) →15代信正 →16代信高 →17代信充→18代信俊 →19代信重 →20代信勝1582年滅亡
・上総武田
14代信長(初代)→15代信高 →16代道信→17代宗信 →18代吉信→19代豊信(信仲)1590年滅亡
考察
疑問点1、
土佐の系図では、安芸武田の12〜13代目が他の系図と違っていて13代目の信武は今まで間違いではないかと思っていた。(この間は正史でも不明な点が非常に多い)
北海道から頂いた系図は10代信武(義光から数えて)から分流したことになっている。
しかし伊予武田信勝が20代のはずですが、系図の中が飛んで居る事になります。
つまり、10代信武と13代信武を勘違いしていたのではないかと言うことです。
安芸武田の14代信繁=甲斐信重とは同一人物で、甲斐武田信重が安芸武田13代信武の養子となり、一旦は合流します。つまり安芸武田になってしまいます。
しかし、次の代15代目で甲斐武田信守(信森)と、安芸武田元綱に別れて続くのです。
土佐の武田系図は、此処からは甲斐武田の系図になっています。
疑問点2、
土佐の系図では、主に安芸武田ですが誕生と死亡が日にちまで書かれた内容で、母方の事まで、また戒名(快川和尚の)まで書かれている点です。
一般に系図は作為が多いため時代考証には証拠とはして扱われないそうです。
正史で不明な点まで書かれたこの系図、果たして信憑性は如何に。
9代 武田信宗( 〜1330) 1329銀山城築城(広島県安芸)
*土佐系図(1273〜1324)
永仁2年(1294)甲斐の国を賜る
10代 武田信武(1292〜1359)
*土佐系図(1298〜1373)永仁6年生まれ・応安6年7月9日没
母は:武藤左衛門尉藤原景頼の女
延文3年(1358)61歳で出家、「隋蓮」という。
嫡男信成は甲斐武田氏 次男氏信は安芸武田氏に分流する
武田家系図 A.B.C

・甲斐武田
11代信成 →12代信春 →13代信満 →14代信重(安芸信武の養子合流)→15代信守(信森) →16代信昌→17信縄 →18代信虎 →19代信玄(晴信)→20代勝頼1582年滅亡
・土佐武田(A系図)
20代勝頼 →21代信勝 →22代信房(以後山崎)→23代晴郷 →24代頼詣→25代頼晴 →26代勝明 →27代勝邑 →28代信善 →29代信英→30代信孟(寛政4年信孟誕生で系図終了分流)
・土佐武田嫡流(B系図分流)
30代信藪 →31代信盛 →32代正策 →33代健臣 →34代・・(現在)
・安芸武田
11代氏信 →12代信在(盛行)→13代信守(信武)→14代信繁(信重が養子合流) →分流15代元綱 →16代元繁 →17代武田光和 →18代武田信実1541年滅亡
*土佐系図では(13代目 信武)信武と成っている。
上段の横線が甲斐武田・2段目の横線が安芸武田

この信武は武田彦六郎・伊豆守
母は武藤筑後前司頼武の女 謚号 養法院殿瑞泉貞壽大禅定尼
康歴元巳未(1379)誕生 永享11年(1439)7月晦日61病死
法名 清浄心院殿雪渓照公大禅定門 <この人物です>
・若狭武田
15代信栄(初代) →16代信賢 →17代国信 →18代元信 →19代元光→20代信豊 →21代義統 →22代元明1582年滅亡
・伊予武田
信友(信繁の弟)→14代信保(初代) →15代信正 →16代信高 →17代信充→18代信俊 →19代信重 →20代信勝1582年滅亡
・上総武田
14代信長(初代)→15代信高 →16代道信→17代宗信 →18代吉信→19代豊信(信仲)1590年滅亡
考察
疑問点1、
土佐の系図では、安芸武田の12〜13代目が他の系図と違っていて13代目の信武は今まで間違いではないかと思っていた。(この間は正史でも不明な点が非常に多い)
北海道から頂いた系図は10代信武(義光から数えて)から分流したことになっている。
しかし伊予武田信勝が20代のはずですが、系図の中が飛んで居る事になります。
つまり、10代信武と13代信武を勘違いしていたのではないかと言うことです。
安芸武田の14代信繁=甲斐信重とは同一人物で、甲斐武田信重が安芸武田13代信武の養子となり、一旦は合流します。つまり安芸武田になってしまいます。
しかし、次の代15代目で甲斐武田信守(信森)と、安芸武田元綱に別れて続くのです。
土佐の武田系図は、此処からは甲斐武田の系図になっています。
疑問点2、
土佐の系図では、主に安芸武田ですが誕生と死亡が日にちまで書かれた内容で、母方の事まで、また戒名(快川和尚の)まで書かれている点です。
一般に系図は作為が多いため時代考証には証拠とはして扱われないそうです。
正史で不明な点まで書かれたこの系図、果たして信憑性は如何に。
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安居神楽太夫*高樽山熊野神社
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小田原征伐に参戦した長宗我部水軍
小田原征伐に参戦した長宗我部水軍
小田原城

1590年(天正18年)に豊臣秀吉によって後北条氏を征伐した変.
下田城攻撃軍の編成軍約10,000人の中に水軍・長宗我部元親の軍が居た。
この戦い参戦はしなかったが、上総武田も攻撃対象になり武田豊信は自害!
問題は長宗我部元親の水軍が伊豆から房総半島に掛けて攻撃をしたことと、この水軍の指揮者で長宗我部元親の家臣である池頼和の活躍が有ったことです。
そこで、池頼和(1593没通称は四郎左衛門。父は池頼定)と武田の関係から。
武田家系図から、勝頼三男正晴(母は三枝夫人)の子勝正(寺村助十郎)の配は池左近進頼勝(勝頼の勝を賜った可能性が大)の娘で、近親者で有った事です。
当然長宗我部軍に父武田正晴達は参陣していたと思われます。
即ち、上総武田は此の征伐で滅び、自害したはずの武田豊信(武田信仲・信之)は救出されて土佐まで来たのでは無いかと推測するところで有ります。
池頼和は謀反の罪で長宗我部元親の命で自刃(1593年)させられまれた。
なお、池氏の娘と婚約した寺村助十郎は元和8年(1622)29才で早世娘は池に帰る。
早世した勝正(寺村助十郎又は寺村勝之助)の娘「兼姫」について系図から一部加筆。
兼は慶長十五年庚戌(1610)出生・父病死の時十三才也、之に依り母親は池左近進に預け、信房(信勝の嫡男)の妻の兄枝川村住人寺村彦左衛門清次方に養育を頼みし所外姓の方に掛り人として居り難く思いしや家名を隠し枝川村百姓源右衛門と申す者権親として彼の娘と称し寛永元年甲子潮江の谷氏に奉公し同二年には中山氏(現佐川町)へ奉公し終に中山興市兵衛直秀の准妻となり男女四人産育す慶安二年二十八才にて暇を乞い清次の妻となって居りしが慶安四年又中山へ行き終に後亦枝川へ帰り彦太郎清秀の妻となる
考察:美人だったのでしょう、三度も結婚しています。されど武田家の娘と名乗れない時代背景が良く分かりますね(土佐では敗者のため身分を隠していた)奉公に行った谷氏・谷泰山と言っては山内氏の学者で有力者だった。
昨日の仁淀川:仁淀川が雨で増水した風景を紹介
大崎橋(右の山は大崎八幡宮・右手白い建物は診療所)

山頭火が沐浴した久喜沈下橋(仁淀川の増水)

小田原城

1590年(天正18年)に豊臣秀吉によって後北条氏を征伐した変.
下田城攻撃軍の編成軍約10,000人の中に水軍・長宗我部元親の軍が居た。
この戦い参戦はしなかったが、上総武田も攻撃対象になり武田豊信は自害!
問題は長宗我部元親の水軍が伊豆から房総半島に掛けて攻撃をしたことと、この水軍の指揮者で長宗我部元親の家臣である池頼和の活躍が有ったことです。
そこで、池頼和(1593没通称は四郎左衛門。父は池頼定)と武田の関係から。
武田家系図から、勝頼三男正晴(母は三枝夫人)の子勝正(寺村助十郎)の配は池左近進頼勝(勝頼の勝を賜った可能性が大)の娘で、近親者で有った事です。
当然長宗我部軍に父武田正晴達は参陣していたと思われます。
即ち、上総武田は此の征伐で滅び、自害したはずの武田豊信(武田信仲・信之)は救出されて土佐まで来たのでは無いかと推測するところで有ります。
池頼和は謀反の罪で長宗我部元親の命で自刃(1593年)させられまれた。
なお、池氏の娘と婚約した寺村助十郎は元和8年(1622)29才で早世娘は池に帰る。
早世した勝正(寺村助十郎又は寺村勝之助)の娘「兼姫」について系図から一部加筆。
兼は慶長十五年庚戌(1610)出生・父病死の時十三才也、之に依り母親は池左近進に預け、信房(信勝の嫡男)の妻の兄枝川村住人寺村彦左衛門清次方に養育を頼みし所外姓の方に掛り人として居り難く思いしや家名を隠し枝川村百姓源右衛門と申す者権親として彼の娘と称し寛永元年甲子潮江の谷氏に奉公し同二年には中山氏(現佐川町)へ奉公し終に中山興市兵衛直秀の准妻となり男女四人産育す慶安二年二十八才にて暇を乞い清次の妻となって居りしが慶安四年又中山へ行き終に後亦枝川へ帰り彦太郎清秀の妻となる
考察:美人だったのでしょう、三度も結婚しています。されど武田家の娘と名乗れない時代背景が良く分かりますね(土佐では敗者のため身分を隠していた)奉公に行った谷氏・谷泰山と言っては山内氏の学者で有力者だった。
昨日の仁淀川:仁淀川が雨で増水した風景を紹介
大崎橋(右の山は大崎八幡宮・右手白い建物は診療所)

山頭火が沐浴した久喜沈下橋(仁淀川の増水)

史跡巡りと総会
武田勝頼土佐の会総会と、午前中の史跡ツアーガイド
九州から大崎家のルーツ(神社から)を探りにお出での2人と5名で巡る。
先ずは、4代遡った先祖の屋敷と大崎氏の先祖の祠を訪ねる!

大崎の町に戻って、大崎氏の大先祖達の“まいさるく”ガイド

本日は、始めて大崎の大先祖「武田信仲(信之)の墓所をガイド

新しいガイドコースを試験中、笑い不動の祠を案内しました。
→ 鳴玉神社へと周遊コースに成りました!

この後、総会に・講演会・懇親会へと。
講演会講師は元県地域指導企画員の西森氏、演題は地域興しについて!
を講演戴きました。



九州から大崎家のルーツ(神社から)を探りにお出での2人と5名で巡る。
先ずは、4代遡った先祖の屋敷と大崎氏の先祖の祠を訪ねる!

大崎の町に戻って、大崎氏の大先祖達の“まいさるく”ガイド

本日は、始めて大崎の大先祖「武田信仲(信之)の墓所をガイド

新しいガイドコースを試験中、笑い不動の祠を案内しました。
→ 鳴玉神社へと周遊コースに成りました!

この後、総会に・講演会・懇親会へと。
講演会講師は元県地域指導企画員の西森氏、演題は地域興しについて!
を講演戴きました。















